<考察>七瀬遥のあるべき姿とは。

※この記事では、テレビアニメ『Free!』とその関連作品に関する内容を含んでいます。読み進める際には予めご了承ください。

2013年にテレビアニメ1期が放送されてから今年で9年。「シリーズ完結」と銘打たれた『劇場版Free! the Final Stroke 後編』(以下『後編』)も公開から1週間が経った。
私はと言えば、とうの昔に前売り券は確保しているものの、まだ観に行っていない。あまり人が多いときには行きたくない、という気持ちがあるためだ。
とはいえ、公開から2週間が経ち、GWも終わりを迎え、そろそろさすがに観に行こうかと思っている。行ったら行ったでまた感想記事を書くことだろう。

 

ところで、昨年公開された『劇場版Free! the Final Stroke 前編』(同『前編』)を見終えたあとの記事では「観終わった後には辛くなった」という感想を抱いたり、後編のティザービジュアルが何か思わせぶりに見えてしまったと書いた。

 

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それから『後編』の情報が明らかになっていくまでの間、私の中ではある疑問が持ち上がっていた。
「『前編』の最後の場面、凛以上に遥がかわいそうに思えて仕方なかったが、そもそもこの物語の中で、果たして遥にとってこれまでの日々やこれから待ち受ける展開は、理想的な(だった)ものなのだろうか?」と。

 

テーマとしてはちょっと大げさではあるが、せっかくなので少し考えてみたい。

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先ほどの疑問を考えていく上では、遥のことだけでは検討材料が足りない。必要になるのは、やはりライバルである凛の存在である。

 

1期(副題のない『Free!』)から、凛は遥に対して並々ならぬ競争心を持ち、それを隠そうともしなかった。それは、小学校時代に出場大会で、自分は息が上がるほど必死になった種目を涼しい顔をして泳ぎきった遥に勝つことが、「競泳選手として世界の頂点に立つ」という自身の目標を達成する上で絶対条件だと信じてやまなかったからだ。
そのために再会してからもしばらく二人の仲は険悪だったが、紆余曲折を経た今では(ライバルとして)良好な仲に収まったように表向きは見える。

 

しかし、それで良かっためでたしめでたしではなく、根底にある思いは前編を終えた今でもきっと変わっていない。なぜなら、凛はまだ世界の頂点に立ってはいない、すなわち自分の目標を達成してはいないからだ。
だからこそ、ときに威圧的な態度も見せて気持ちを焚き付けさせてまで、少なくともそれまでの間は遥をそばに置いておこうとする。

 

一方で遥の根底は途中で大きく変わっている。
最初のうちは、1期1話の冒頭で呟いているように「十で神童、十五で天才、二十歳過ぎればただの人」。もっと言うと「早くただの人になり」たかったのだ。
自らを神童や天才などとは露ほども思わず、ましてそのように周りから評価されるだけならまだしも、さらなる飛躍を期待されることは、彼にとって望まない事であった。

 

その考え方が変化したのは大学進学の前後である。
「泳げればそれでいい」から「タイムにもこだわっていく」となり、「ただの人」になる前にできる限りの努力をしてみようと心の内で静かに奮起している。

 

転換しているとはいえ、同じ人物の価値観なのだから人間性としては地続きなのではないか、とも考えられるが、前編を見た身としては、やはりもともとあった根底のほうが遥の自然体であると考えてしまう。

 

遥のあるべき姿は、鬼気迫る目つきでコンマ以下までのタイム短縮を追い求める姿ではなく、シリーズ前半で描かれていたような、まさにシンボルアニマルのイルカを想起させる、滑らかで水の流れと一体となった姿ではないか。

 

考え方が変わることが全く受け入れられないわけではない。それが良い方向に顕れたのが、3期(『Free! -Dive to the Future-』)で郁弥と再会してから2人の間のわだかまりが解消するまでの部分である。自分の信条を変えてでも郁弥を救いたいと自ら個人メドレーに挑戦した。この部分を見終わったあと、(良い方向に)変わったなぁと感慨深くなった。もし高校時代の考え方のままだったら、真琴や旭もそばにいるとはいえ、描かれていたほど前向きになってはいなかったのではなかろうか。

 

そのように、直面した困難を乗り越えていく場面は、精神面を成長させるための言わば「必要悪」なのだと思う。

 

それは凛にしても同じである。現実問題としていつまでも「フリー」ではいられず、仮に進学しなかったとしても、ではどのような人生を送るのか、どこかの段階で決めなければならない時が来る。その避けては通れない壁を乗り越える道筋を与えてくれたのが凛であるとも考えることが出来る。
だから、私は凛のことが嫌いで、彼のことを悪者呼ばわりしてこき下ろそうという意図はない。彼の行動力には感服する部分もある。

 

ただ、遥と凜の元々のスタンスが対照的なため、凛が強引に引っ張ることで遥がその度身も心も消耗していくさまは、見ていてとても胸が苦しく感じてしまう。このシリーズを通して遥がたどってきた道筋は、人間として成長していくにあたって申し分なかったと言えるのだろうか、と、いったいどの目線になっているのだか分からないことを考えずにはいられない。

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この記事を書き始めたのはもう数ヶ月も前なのだが、遅筆すぎて映画が公開されてからもしばらく経ってしまった。
考えているうちに検討材料が膨らみすぎ、全部を盛り込んでいては長すぎると思い、この形になった。考慮すべき事柄を網羅できていないかもしれないので、その点はご容赦願いたい。


そうこうしているうち、先日『Free!』公式のTwitterでクライマックスビジュアルなる画像がアップされていた。遥含めみんな笑顔でいる、ということは私がここまで書き連ねてきた疑問はきっと考えすぎに終わるのだろう。『後編』を観終わった後には心の底から安堵できることを期待したい。